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マジンガーも宇宙へ出てしまいましたが二期はあるのでしょうか?相変わらずのフットワークの軽さですね。壱岐ですか?台風がヤバそうな気がします。
台風と重なりそうでドキドキです。重なったら、家に引き籠って動画作りです。(^^;
台風が来てるようなのでお気をつけて(笑)
ありがとうございます。晴れることを祈るばかりです。
次は壱岐ですね😊動画も楽しみですが、現場の中継もして欲しいですw
現地にいる時、私は限りなく普通の観光客です。(^^) たまには動画も撮影しようかな。以前、古墳の上で何か話そうとしたら「古墳です」くらいのことしか言えませんでした。(^^;
@@takedaharuki さんわかりますwww私も取材といいながら現地の動画溜め込んでますがほとんど使えませんからねw気をつけて楽しんでください😀
@@mousou ありがとうございます。
ああ、焼けちゃいましたねwwwww(^_^;) 環濠集落はやっぱり城塞遺跡なんですね。でも吉野ヶ里遺跡は不思議です。監獄と言うのは腑に落ちます。でも本当に復元は正確なのかは「?」なんですよね。まるで行田市の忍城が水攻めにあったかのごとき土塁。
一見地味に見えて、教科書など復元図が塗り替わる問題だったりします。どういう解釈が妥当なのか、広く見聞し、答えを見つけたいです。水対策といのも、確かにと思うところもあります。
えっと、昔からサイカチドキ遺跡を訪ねると疑問でした。近くに方形周溝墓もあります。山梨の古墳を先日訪ねたのですが、其処は方形周溝墓と円形周溝墓がありました。円墳は、円形周溝墓の流れかな?と又、同じように釈迦堂博物館を尋ねたのですが、土偶の企画展をやってました。土偶の髪型を想像復元を見ると、江戸時代の髷を連想したり、瞬間浮かんだ縄文のビーナスの方はオカッパの子供達を、昔の人達の髪型とかやっぱり似て来るのかな?弥生に成ってからは、と言うか古墳の埴輪の巫女達他も髷を結ってるものは多いとすると、卑弥呼も髷を結っていた可能性も考えました。さて、コチラも如何なものか?
サイカチドキ遺跡。関西からだと遠いので一度行ったくらいです。山梨の古墳めぐり。充実してますね。釈迦堂博物館。今、ネットで見ました。凄い博物館ですね。近くさえ行ったことがない場所。こちらが行くのはいつになるやら。
@@takedaharuki そうそう、矢張り縄文土器と土偶で特に気になるのが、ご存知釣り手土器、正にイサナミの尊と迦具土の神の神話を思わせるのは宗像教授の話通り。土器等も、また、井戸尻遺跡や尖石遺跡、金生遺跡に行きたくなります。
よく焼けたようで(笑)
還元炎焼成する相棒。(^^)
外土塁の構造が正しいなら、外敵用というよりも浸水を防ぐための堤防だったんじゃなかろうかとふと思った有明海の干満差は6mで、台風など来た日には海岸沿いにあった吉野ケ里への影響も大きかったんじゃなかろうかと予備知識なしの単なる思い付きですが来週台風逸れてくれると良いですね
「へぇっ!」と思って、吉野ケ里歴史公園のHPとかを見直したら、おっしゃる通り、「倭人伝に寄せている」⇒「かなり盛っている」印象に変わりました。①深い濠とその前後に穴や木片が見つかったので、防衛上「高い土塁」と「密集した高い柵」があったと考察して復元した、的な解説がありますね。「外土塁と柵」を高く復元したのは、②濠は深いけど水が無かったから濠の外の守りを増強した、とは言いますが、実は「楼閣・見張り台」を高く造りたかったから、という下心を感じます。②今回の見直しで、一つ勉強になった事⇒吉野ヶ里歴史公園の遺跡の復元は、「実際に発掘された遺跡を保護する為、その上に30~50㎝の盛り土を被せてから復元してある」って事でした。埋め戻しってこういう事だったのですね。
こんばんは いつも楽しませてもらってます、ちなみに私はマジンガーZ、デビルマン推しですこの前他の動画で環濠や柵戦いの為よりも猪🐗熊 鹿🦌など避けの役割があったのかもって言ってました、どうでしょうか
大塚・歳勝土遺跡の濠と土塁の写真、私も撮影していましたので確認しました。吉野ケ里ほど露骨ではないですが、確かに外の土塁の方が高くて攻めやすいつくりだと感じます。どうしてこうなった感ありありです。
特殊器台ーー😂って高温焼成?! 対人で意味のなさそうな防御機構は野生動物対策だったりしないですかね。。。ないかな笑 次はなんと壱岐に行かれるんですね!私まだ行ったことないんです。いいなぁすごいなぁ活動量半端ないです!しかしまたもやどこに行くかわからないノロノロ台風ガーー😖来ないで台風の舞を、いや祈りをおくります😅
特殊器台を還元炎焼成してみました。(^^) 外土塁は野生動物対策で、内濠は集落内の排水という説もあります。確かに理に適っていると思います。30年前に壱岐に行った時、実は台風でえらい目に遭いました。まさか今回もとちょっとドキドキしています。
しばらくは雨の予報が続いてますよね私も困ってます。ところで冒頭のコント、焼成温度だけじゃなくて酸化還元反応を考えないと、色がどうなるか分からないかと。うっかり赤か金色になれば面白くなりそうですが。環濠の位置がおかしい話は、たしかに20年以上前に聞いた記憶があります。私の第一印象もまさに監獄でした。あるいは奴隷を住まわせておく施設なのかなあと。住むのは住民と奴隷が一緒でも、脱走防止という目的なのかもと思いました。最近思うのは、考えても正解は出ないんじゃないかなと。唐突ですがベルリンの壁ってありましたよね。あれ素人は誤解しやすいんですが、「外」の民が「中」に逃げ込まないように「外」の政府が設置したものです。こんなの文献が無ければ思いつかないですよね。
酸素を十分に供給したら高温でも確かに備前焼のように赤くなりますね。この外土塁の件。私と同じように20年以上に前に聞いている人がいるというのは何か嬉しいです。たぶん、正解は難しいと私も思います。環濠内の土器に「奴隷収容所」って墨書きでもしていない限り。ベルリンの壁。なるほどです。ベルリンの壁はちょうと私が学生の頃に崩壊しました。その頃、私はマスターキートンという漫画を読んでいて、いろいろ考えさせられました。
濠の土を集落の外側に盛って射手を守るための塹壕や積み上げた土嚢のような遮蔽物にしたのではないかなと思いました。理由は吉野ケ里遺跡の写真の濠と土塁に段差があるのを見て「これもう少し広ければ人が立てるな」と思ったからです。その場合、柵は全撤去もしくは間隔をあけて視界と射線を確保する必要があるのですが柵の復元は想像によるものなので大きな矛盾点にはならないと思います。
土塁と壕の間の段差。確かにこれがあればその可能性もありかも。隙間のない柵についてはほぼあり得ないというのが多くの意見です。提唱者自身が撤回しているくらいなので。いったん、白紙にして考えると、いろいろ想像が膨らみます。考古学的に断片的な情報しかありませんが、みんな意見、いろいろ参考になります。
ジオラマ好きなら壱岐国博物館はたまらんでしょうな。気をつけて行ってらっしゃいませ
外部の低地から見えにくくした?とか中央部に引き込んでから囲んでから叩く?とかを想像しました。不思議ですね。
湯築城の内堀土塁が堀の外側にありますね。資料館で防御上どうなのかって聞いたけど納得のいく返事ではなかったです。
しまった。愛媛に行った時に行こうか迷ったのですが、行っておけば良かった。まさか、湯築城もそういう構造になっていたとは! いろいろ考えるヒントが隠されている気がします。情報ありがとうございます。
位置的に見て何処を守るかで見れば不自然ですが呉の前線基地で考えれば納得出来るかも知れません北九州を狙ってたかも?後は海沿いで水害を防いだかも?
外土塁があった場合、水害対策は有力な説です。何を何から守ったか、いろいろ考えさせられます。濠は何重かあり、それぞれで用途が異なったり、集落毎でも用途が異なったりするかも知れません。つくづく古代史は奥が深いです。
お待ちしておりました‼︎ズサ━━━━⊂(><。⊂⌒`つ≡≡≡━━━━!!
ありがとうございます。-(^^)-
マジンガーも宇宙へ出てしまいましたが二期はあるのでしょうか?
相変わらずのフットワークの軽さですね。壱岐ですか?台風がヤバそうな気がします。
台風と重なりそうでドキドキです。重なったら、家に引き籠って動画作りです。(^^;
台風が来てるようなのでお気をつけて(笑)
ありがとうございます。晴れることを祈るばかりです。
次は壱岐ですね😊
動画も楽しみですが、現場の中継もして欲しいですw
現地にいる時、私は限りなく普通の観光客です。(^^) たまには動画も撮影しようかな。以前、古墳の上で何か話そうとしたら「古墳です」くらいのことしか言えませんでした。(^^;
@@takedaharuki さん
わかりますwww
私も取材といいながら現地の動画溜め込んでますがほとんど使えませんからねw
気をつけて楽しんでください😀
@@mousou ありがとうございます。
ああ、焼けちゃいましたねwwwww(^_^;)
環濠集落はやっぱり城塞遺跡なんですね。でも吉野ヶ里遺跡は不思議です。監獄と言うのは腑に落ちます。でも本当に復元は正確なのかは「?」なんですよね。まるで行田市の忍城が水攻めにあったかのごとき土塁。
一見地味に見えて、教科書など復元図が塗り替わる問題だったりします。どういう解釈が妥当なのか、広く見聞し、答えを見つけたいです。水対策といのも、確かにと思うところもあります。
えっと、昔からサイカチドキ遺跡を訪ねると疑問でした。
近くに方形周溝墓もあります。
山梨の古墳を先日訪ねたのですが、其処は方形周溝墓と円形周溝墓がありました。
円墳は、円形周溝墓の流れかな?と
又、同じように釈迦堂博物館を尋ねたのですが、土偶の企画展をやってました。
土偶の髪型を想像復元を見ると、江戸時代の髷を連想したり、瞬間浮かんだ縄文のビーナスの方はオカッパの子供達を、昔の人達の髪型とかやっぱり似て来るのかな?
弥生に成ってからは、と言うか古墳の埴輪の巫女達他も髷を結ってるものは多いとすると、卑弥呼も髷を結っていた可能性も考えました。
さて、コチラも如何なものか?
サイカチドキ遺跡。関西からだと遠いので一度行ったくらいです。山梨の古墳めぐり。充実してますね。釈迦堂博物館。今、ネットで見ました。凄い博物館ですね。近くさえ行ったことがない場所。こちらが行くのはいつになるやら。
@@takedaharuki そうそう、矢張り縄文土器と土偶で特に気になるのが、ご存知釣り手土器、正にイサナミの尊と迦具土の神の神話を思わせるのは宗像教授の話通り。
土器等も、また、井戸尻遺跡や尖石遺跡、金生遺跡に行きたくなります。
よく焼けたようで(笑)
還元炎焼成する相棒。(^^)
外土塁の構造が正しいなら、外敵用というよりも浸水を防ぐための堤防だったんじゃなかろうかとふと思った
有明海の干満差は6mで、台風など来た日には海岸沿いにあった吉野ケ里への影響も大きかったんじゃなかろうかと
予備知識なしの単なる思い付きですが
来週台風逸れてくれると良いですね
「へぇっ!」と思って、吉野ケ里歴史公園のHPとかを見直したら、おっしゃる通り、「倭人伝に寄せている」⇒「かなり盛っている」印象に変わりました。
①深い濠とその前後に穴や木片が見つかったので、防衛上「高い土塁」と「密集した高い柵」があったと考察して復元した、的な解説がありますね。
「外土塁と柵」を高く復元したのは、②濠は深いけど水が無かったから濠の外の守りを増強した、とは言いますが、実は「楼閣・見張り台」を高く造りたかったから、という下心を感じます。
②今回の見直しで、一つ勉強になった事⇒吉野ヶ里歴史公園の遺跡の復元は、「実際に発掘された遺跡を保護する為、その上に30~50㎝の盛り土を被せてから復元してある」って事でした。埋め戻しってこういう事だったのですね。
こんばんは いつも楽しませてもらってます、ちなみに私はマジンガーZ、デビルマン推しです
この前他の動画で環濠や柵戦いの為よりも猪🐗熊 鹿🦌など避けの役割があったのかもって言ってました、どうでしょうか
大塚・歳勝土遺跡の濠と土塁の写真、私も撮影していましたので確認しました。吉野ケ里ほど露骨ではないですが、確かに外の土塁の方が高くて攻めやすいつくりだと感じます。どうしてこうなった感ありありです。
特殊器台ーー😂って高温焼成?! 対人で意味のなさそうな防御機構は野生動物対策だったりしないですかね。。。ないかな笑 次はなんと壱岐に行かれるんですね!私まだ行ったことないんです。いいなぁすごいなぁ活動量半端ないです!しかしまたもやどこに行くかわからないノロノロ台風ガーー😖来ないで台風の舞を、いや祈りをおくります😅
特殊器台を還元炎焼成してみました。(^^) 外土塁は野生動物対策で、内濠は集落内の排水という説もあります。確かに理に適っていると思います。30年前に壱岐に行った時、実は台風でえらい目に遭いました。まさか今回もとちょっとドキドキしています。
しばらくは雨の予報が続いてますよね私も困ってます。
ところで冒頭のコント、焼成温度だけじゃなくて酸化還元反応を考えないと、色がどうなるか分からないかと。うっかり赤か金色になれば面白くなりそうですが。
環濠の位置がおかしい話は、たしかに20年以上前に聞いた記憶があります。私の第一印象もまさに監獄でした。あるいは奴隷を住まわせておく施設なのかなあと。住むのは住民と奴隷が一緒でも、脱走防止という目的なのかもと思いました。
最近思うのは、考えても正解は出ないんじゃないかなと。
唐突ですがベルリンの壁ってありましたよね。あれ素人は誤解しやすいんですが、「外」の民が「中」に逃げ込まないように「外」の政府が設置したものです。こんなの文献が無ければ思いつかないですよね。
酸素を十分に供給したら高温でも確かに備前焼のように赤くなりますね。この外土塁の件。私と同じように20年以上に前に聞いている人がいるというのは何か嬉しいです。たぶん、正解は難しいと私も思います。環濠内の土器に「奴隷収容所」って墨書きでもしていない限り。ベルリンの壁。なるほどです。ベルリンの壁はちょうと私が学生の頃に崩壊しました。その頃、私はマスターキートンという漫画を読んでいて、いろいろ考えさせられました。
濠の土を集落の外側に盛って射手を守るための塹壕や積み上げた土嚢のような遮蔽物にしたのではないかなと思いました。
理由は吉野ケ里遺跡の写真の濠と土塁に段差があるのを見て「これもう少し広ければ人が立てるな」と思ったからです。
その場合、柵は全撤去もしくは間隔をあけて視界と射線を確保する必要があるのですが柵の復元は想像によるものなので大きな矛盾点にはならないと思います。
土塁と壕の間の段差。確かにこれがあればその可能性もありかも。隙間のない柵についてはほぼあり得ないというのが多くの意見です。提唱者自身が撤回しているくらいなので。いったん、白紙にして考えると、いろいろ想像が膨らみます。考古学的に断片的な情報しかありませんが、みんな意見、いろいろ参考になります。
ジオラマ好きなら壱岐国博物館はたまらんでしょうな。
気をつけて行ってらっしゃいませ
外部の低地から見えにくくした?とか中央部に引き込んでから囲んでから叩く?とかを想像しました。
不思議ですね。
湯築城の内堀土塁が堀の外側にありますね。
資料館で防御上どうなのかって聞いたけど納得のいく返事ではなかったです。
しまった。愛媛に行った時に行こうか迷ったのですが、行っておけば良かった。まさか、湯築城もそういう構造になっていたとは! いろいろ考えるヒントが隠されている気がします。情報ありがとうございます。
位置的に見て何処を守るかで見れば不自然ですが呉の前線基地で考えれば納得出来るかも知れません北九州を狙ってたかも?
後は海沿いで水害を防いだかも?
外土塁があった場合、水害対策は有力な説です。何を何から守ったか、いろいろ考えさせられます。濠は何重かあり、それぞれで用途が異なったり、集落毎でも用途が異なったりするかも知れません。つくづく古代史は奥が深いです。
お待ちしておりました‼︎ズサ━━━━⊂(><。⊂⌒`つ≡≡≡━━━━!!
ありがとうございます。-(^^)-